創業期

1959(昭和34)年~1970(昭和45)年

森岡合成有限会社の誕生

一期一会

「モリオカ」の由来

 「どうして社名が『モリオカ』なのでしょうか。歴代社長の名前は住田なのに...」。この社名の由来には、創業時から引き継がれるある想いが隠されている。現在のモリオカグループの座右の銘は「一期一会」である。人との出会いはご縁であり、その時頂いた巡り合わせに感謝し、相手に心を尽くす。人との出会いの繋がりがの人の生きざまを表すかのように企業の歴史も、人とのご縁で繋がっている。当グループ60年の歩みは、一人の温厚な男の一歩から始まり、多くの人との出会いと支えによって作り上げられてきたものである。
  • 若き日の正三

  • 出征前に撮影。文字は正三の直筆

ゼロからのスタート

 当グループ創業者の住田正三は、1914(大正3)年4月1日、中島郡平和町屯倉村(現在の稲沢市平和町上三宅)で9人兄弟の三男として生まれた。住田家は、三宅の地で10代以上続く庄屋であった。正三は温和な性格で誰からも好かれる少年であり、小学校卒業後は、家族を支えるために働きに出た。その働き先が、後の森岡産業株式会社の礎となる肥料問屋の「やまさ森岡屋三輪商店」であった。
 懸命に働いていた矢先の1937(昭和12)年、日中戦争を機に生活は一変した。一家の男子は召集を受け、正三も25歳の時に派兵され、物資の輸送に当たった。1943(昭和18)年、帰国した際に結婚し、翌年に長女をもうけたが軍隊での生活は続いていた。

 1945(昭和20)年、日本は終戦をむかえ、正三は無事帰還した。翌年には長男の正幸も生まれ新生活が始まろうとした矢先、「農地改革」が実施された。これにより住田家は多くの土地を失った。さらに戦時中から続く食糧難も加わり、食べ物と収入を得る道が途絶えそうになった。
 途方に暮れるなか、支えとなったのは、無事に生還を果たしたやまさ森岡屋三輪商店時代の仲間との再会であった。1946(昭和21)年、名古屋市中村区に事務所を構えた森岡産業株式会社(やまさ森岡屋三輪商店より改称。現在は三重県川越町)の事業に加わった。そして、この一歩が、当グループの序章となった。
  • Keyword

    農地改革

    政府が地主から所有地を強制的に買 い上げ、小作人(耕作者)に安く売 り渡す国策。

    三島市郷土資料館 提供

プラスチックとの出会い
そして独立

 森岡産業(株)は当時、肥料や螺子の製造をおこなっていた。正三は、入社間もない1947(昭和22)年に常務取締役として経営にも参画し、1954(昭和29)年には新設のビニール部(合成樹脂の製造販売)の責任者になった。ビニール部では、駄菓子や文房具向けの軽包装や農業用ビニールハウス向けの製品販売を任されていた。
 しかし、森岡産業(株)はビニール部の廃止を決めた。当時、石油は高額な新素材であった。日本のエネルギー資源は大きく石炭に依存し、石油が占める割合は1割に満たなかった。石油製品についても、塩化ビニール樹脂に続いてポリエチレンが製造段階に入ったところであり、事業化には事業尚早と判断されたのであった。
 一方で正三は、軟質ビニールは合羽や風呂敷としても使われるなど、日常生活における幅広い用途に、大きな将来性を感じていた。正三は決心し、ビニール部を引き継いで独立を望んでいる意向を会社に伝えたところ、快く背中を押してもらった。1958(昭和33)年のことであった。退社後も1971(昭和46)年まで監査役として籍を残していたことが、森岡産業(株)と正三の良好な信頼関係を示している。そしてこのご縁が、当グループの名前の由来に繋がることとなった。
 1960年代になると、大手企業のプラスチック事業への参入が加速した。慎重な正三が下した決断は、時代の流れを的確に見据えたものだった。後に当社の礎を築くことになるシヤチハタ工業株式会社(現在のシヤチハタ株式会社)との繋がりも、当時、スタンプ台などを入れる軽包装を加工販売していたことがきっかけであった。
  • 1951年肥料部慰安旅行(岐阜県養老)(正三は左から4番目)

  • シヤチハタ工業共栄会(正三は左から2番目)

船原町での出発と
伊勢湾台風

 1959(昭和34)年、正三が創業の地に選んだのは瑞穂区船原町であった。2階建て住宅を購入し、改修を始めた。主要取引先の一つであったシヤチハタ(株)からは、引き続きスタンプ台を入れるポリエチレン袋の仕事を受託することになった。さらに、スタンプ台の一部の組立加工も新たに受注した。
 こうして同年4月、のちに正三の右腕となる磯村彰一と、塩化ビニールの加工業務を請け負っていた外注先の社長の3名で、「森岡合成有限会社」を立ち上げた。お世話になった森岡産業(株)への気持ちを社名に込めた正三らしい命名であった。
 集団就職で募った5名の女性従業員の就業も決まり、ついに9月25日、40坪ほどの敷地に、事務所と寮を完備した2階建ての工場が完成した。正三は「よし、明日から仕事だ」と操業開始を心待ちにした。
 ところが、翌日の9月26日、伊勢湾台風が襲来した。台風は紀伊半島に上陸、死者・行方不明者は5,000人を超え、愛知県にも甚大な被害をもたらした。近隣地区の雁道や高辻などは一帯が水浸しになり、途中の街路樹も全部なぎ倒された。
 幸い、船原町は高台にあったため、前日に完成したばかりの工場に被害はなかった。自宅のある平和町から、数日かかって5名の従業員全員の安否も確認できた。2、3週間後に水道や電気が復旧し、工場は本格的に稼働を始めた。「不幸中の幸いだった」。従業員たちと安堵し、正三の事業はようやくスタートを切ったのである。
  • 伊勢湾台風の被害で海と化した名古屋市内

  • Keyword

    集団就職

    集団就職とは、地方の中学・高校の卒業生が、大都市圏の会社や店舗などに集団で就職することである。工場建設の大工さんからの紹介で受け入れた最初の5名の従業員の出身地は「佐賀県東松浦郡鎮西町名護屋」。「名護屋」と「名古屋」...不思議な縁を感じた。その後約3年間で、毎年男女合わせて5名ほどの従業員を名護屋から採用した。

ひとつの家族のように

森岡合成の船出

 森岡合成(有)の創業当初の主な事業は、ポリエチレン袋などの軽包装の加工販売とスタンプ台の組立加工であった。当初は、シヤチハタ(株)から熱で圧着する機械を借りて1個ずつスタンプ台の加工をしていた。工場は手狭ではあったが、女性ばかりの作業場は明るい雰囲気で、昼休みには華やかな笑い声が響く。夏の暑い日にはみんな正三が差し入れるアイスクリームを楽しみにしていた。「家庭のような会社を作りたい」という正三の理想どおり、ひとつの家族のような温かい関係だった。
 営業は正三と磯村が担当していた。当時会社には自動車はなく材料を運ぶのも納品に行くのも全てスクーターやオートバイなどの二輪車だった。後に磯村がこう語っている。「大変だったのはオートバイでの営業でした。特に雨や寒い日はきつかったな。後ろに材料を乗せてシートを被せ、自分は合羽を着て三重県桑名まで往復60km以上走ることも多かったです。トヨモーター(トヨタ)に始まり、ベンリィ(ホンダ)、ミゼット(ダイハツ)、パプリカ(トヨタ)などの昭和の名車と一緒に、営業しました。濡れなくていい屋根付きミゼットにはじめて乗った日は本当にうれしかったですね」。
  • 1962年 最初の慰安旅行(熱海赤 尾ホテル)

  • 船原町の工場前にて念願のミゼットと磯村(右)

本社を自宅敷地に移転

 独立して数年後、プラスチックを原料とした製品の需要が高まった。包装も、紙や布に代わってプラスチック製のものが普及しはじめた。菓子やマスクを入れるための軽包装や、ナイロン製こいのぼりのパッケージ製造などの受注が相次ぎ、利益も安定するようになってきた。また農業用ビニールハウスでの大判ビニールの加工ノウハウを活かした、工場内の間仕切り製造の仕事も新たに増えてきた。
 こうして仕事が順調に増えたおかげで、船原町の工場が手狭になってきた。そこで、1969(昭和44)年に工場の移設を決め、正三の自宅の土地に工場を建設した。現在の本社工場の誕生である。ここでは、スタンプ台の加工とウェルダー加工をおこなうこととなった。別の場所で働いていた正三の兄弟も入社し、事業推進の大きな戦力となった。
 そして、販売部門は、当時のお客さまの所在地を考え、名古屋市の中心である昭和区恵方町阿由知通に移転し、業務は全面的に磯村に委ねた。下に喫茶店のある建物の2階のこじんまりとした事務所で、陣容6名程での再スタートになった。船原町の工場は倉庫として活用することにした。

 ちょうどこの時期、創業時に苦楽を共にした仲間の一人から、独立を告げられた。事業を成長させようとしていた正三にとっては大きな痛手であった。しかし、自分自身も独立を後押ししてもらった過去があったことから、と彼の独立を受け入れた。
  • 設立当時の本社工場の外観

  • 本社工場は、近くの病院の建て替えの際に出た材料を一部活用して作られたものである。「病院の骨組みだったら頑丈なはずだ」という正三らしい合理的な発想だった。

  • 作業風景

「ブリスターパックやれんか?」

 本社工場での作業も順調に進みかけた1972(昭和47)年頃、正三はシヤチハタ(株)からある相談を受けた。シヤチハタ(株)は、米国でもスタンパーの製造販売を展開し始めた頃だった。米国市場ではスーパーマーケットでの小売販売が主流になり、商品の販売と陳列のためには「ブリスターパック」が必要であった。そこでシヤチハタ(株)から「モリオカさん、ブリスターパックやれんか?」と相談を受けたのである。この一言が森岡合成(有)の大きな転機となった。
 正三がブリスターパックを見たのはこの時が初めてだった。フィルムをどこで手に入れるか、金型をどうやって作るか、皆目見当がつかなかった。しかし「シヤチハタさんのためになんとかしたい」という思いが正三を突き動かした。
 当時、ものづくりのマザーツールである金型の中心地は大阪であった。現地に足を運んで金型メーカーや材料メーカーを回り、ブリスターパックを作る術すべを探し求めた。これが後に当グループを支える事業の柱となる「真空成形」との出会いである。こうして、森岡合成(有)は名古屋で最初に真空成形に取り組んだ会社となるのだった。
  • Keyword

    ブリスターパック

    真空成形による透明のプラスチックケースと印刷した台紙の間に製品を収納し、プラスチックケースと台紙を熱圧着して一体型にしたパッケージ。

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